栗林公園に関する発言等

全体

(前略)しかして、玉澗、青渓、曲隈、磊川、清流水、睡龍潭等の長短泉流を縦横開通し、六大水局と貫穿連結し、涴演秀邃の形態を窮極しければ、流れ来てその首を弁ぜず、注ぎ去ってその尾を知らず。あるいは釃て合し、あるいは停まりて忽ち旋る。

その経営の至巧最妙なること、遙かに岡山後楽園の池沼の右に出でたり。

西京桂離宮の園地は、小堀遠州の傑作と称して、縈紆盤回したる水局構造は、巧ならざるに非ずと雖も、独りこの園地の下風に立たざるを得ず。熊本成趣園は、池水清澄他に比類無けれども、地形に至ってはなお未だ穉想を免れずして、一覧すれば直ちにその涯涘を看破すべく、この園の池沼源委を諦認し難きものとは、もとより同日に語るべからず(後略)

(小沢圭二郎 『栗林公園保護論』 1897年)

小沢圭二郎は1897年に香川県の招きで栗林公園を調査し、当時管理が行き届かず荒れていた栗林公園について『栗林公園保護論』『栗林公園改修意見書』を県に提出しました。引用部分ではほかの庭園を引き合いに出しつつ栗林公園の水系の複雑さを高く評価し「桂離宮庭園の水局構造は巧みだが、栗林公園にだけは及ばない」とまで言っています。

「我ガ国ニテ風致ノ美ヲ以テ世ニ聞エタルハ、水戸ノ偕楽園、金澤ノ兼六園、岡山ノ後楽園ニシテ、之ヲ日本ノ三公園ト称ス。然レドモ高松ノ栗林公園ハ木石ノ雅趣却ツテ此ノ三公園二優レリ」

(文部省発行『高等小学読本』巻一 1910年(明治43年))

「(前略)余は本園をもって従来茶趣味に囚われたる庭園が時代の推移に伴うて、漸く陰欝を避け、園主の趣味に従て自由に計画せんとしつつしかも未だ低級なる趣味に陥らざる時期の最も優れたる庭園の一たることを承認せんとするものである」

(龍居松之助 『日本名園記』 1923年)

龍居松之助 (1884 - 1961)の庭園論は芸術一辺倒ではなく、使って遊ぶことや施主の趣味を出すことにも意義を認めました。これは当時の研究者としては珍しいことです。引用部分では「陰鬱を避け」「趣味」「自由」といった表現に、楽しい庭園のイメージが感じられます。

「(前略)又去って杖を公園に曳け。水清く幽趣あり雅致あり。鯉魚水中に躍れば美鳥花間に囀る。草木皆奇態を呈し、岳陵相連なり。一歩にして風光相轉じ、園内到る據として各々一風景を成さゞる所なく眞ら人をして徘徊去る能はざらしむ公園(後略)」

(菊池寛「郷里の風景」より)

菊池寛は栗林公園のある香川県高松市の出身。「郷里の風景」は学生時代の作文で現在は『菊池寛全集』で読むことができます。文中の一節「一歩にして風光相轉じ。園内到る據として各々一風景を成さゞる所なく…」はいわゆる「一歩一景」のこと

もと高松藩主松平氏の別墅である。苑池樹石雅趣に富み工作物また布置の妙を得ている。

大名庭のうち作庭技術の特に秀れたものとして価値が高い

(文化庁 国指定文化財等データベースより 栗林公園の解説文の一部)

「(前略)この付近の地割は甚だモダンであって、岡山後楽園の地割とともに、江戸時代初期の園路の地割が甚だ創作的であり、進歩的であることを見出すのである」

(重森三玲『日本庭園史大系17 (江戸初期の庭4)』1971年)

重盛三玲は大名庭園自体をあまり評価しないのですが、その中では栗林公園を比較的高位(玄宮園の次くらい)に評価しています。ここでの評価ポイントは地割 (平面設計) です。

「この庭園は、西芳寺庭園や桂離宮の回遊式の形態とは、時代が新しいこと、江戸(東京)という武蔵野の風物を背景に発達した当時の作庭様式そのままに作庭されている点で、少し趣が異なってくる。明るく華やかで、おおらかである。」

(中根金作『名庭のみかた』 保育社 1977年)

「栗林公園は江戸時代の大名庭園下屋敷として回遊式の典型的な形態を備えている。自然の山形、紫雲山を背景として作庭され、豊かな水利と土地の名物である松樹をふんだんに利用して庭景をととのえていることが、他には見られない大きな特色である。」

(中根金作『名庭のみかた』 保育社 1977年)

「後楽園・兼六園・偕楽園といった大庭園にくらべても、栗林公園の開放性は際立っている。(中略)栗林公園は庭のうちに自然を取り込むことによって、または山に抱かれるようにつくられることによって、庭園でありながら自然に解放されている」

(『日本の庭園美 10 栗林園 変幻する60景 』集英社 1989 より海野弘)

「大名庭園の性格を主として回遊を楽しむところに置くとすれば、地方城下町の大名庭園としては、栗林園が第一に挙げられる」

(白幡洋三郎『大名庭園』講談社選書メチエ 1997年)

掬月亭について

「軽快さと開放感、その極地ともいうべき建物がこの掬月亭である。建具を取り払うと庭が三方に広がる。庭の空気は室内に入り込み、ここに座るといつしか室内が庭と一体化していることに気付く」

西和夫 『日本の建築空間』より

建物は伝統的な手法と素材で作られた純粋な日本家屋ですが、その印象はモダンかつシャープで、近代建築の傑作として名高い、鉄とガラスで作られたミース・ファン・デル・ローエ(1886-1969)の<ファンズワース邸>の美しさに相通じるものがあるように思いました」

中村好文 『意中の建築』(下巻) より

「掬月亭の魅力は、その非常に軽やかで華奢な作りではないでしょうか。屋根は緩勾配の柿葺きで、高さを抑えつつ軽快感を出しているように感じます。天井は和紙張りで、僅かにある壁の仕上げも土壁ではなく和紙張りであり、襖や障子を取り払った後に残る、柱と天井で構成される空間はその細身の柱と相まって、とても軽やかです」

香川県 営繕課のページ(現存せず)より

栗林二十詠

栗林二十詠とは、園内のみどころ20か所をそれぞれ五言絶句にまとめた詩文です。1770 (明和七) 年に当時の藩主松平頼恭の命により儒学者の青葉士弘がまとめました。20か所は南庭に集中していますが、北庭からは芙蓉沼が選ばれています。

栗林公園北庭にある栗林二十詠の碑
栗林公園北庭にある栗林二十詠の碑

地図

番号  

 名称  場所の説明 詩文 
1 脩竹岡(しゅうちくこう)    竹の岡 修竹被長岡 濃陰碧流映 高人来嘯咏 應留此君
2 芙蓉沼(ふようしょう) ハス池 時過芙蓉沼 芙蓉一様開 斜陽短棹外 紅袖入
3 戛玉亭(かつぎょくてい) 茶室 戞玉亭中景 清泉戞玉流 一觴復一詠 可洗春愁

4

西湖(せいこ)

青春携佳興 小艇過花林 昨夜連山雨 今朝湖水深
5

栖霞亭(せいかてい)

 あずまや 愛此亭中幽 綵霞日開 新花復新緑 酒杯
6 会僊厳(かいせんがん) 大きな石組 真仙何此 巌余会仙名 風鳳笙響 雨弾棋声

7

飛猿厳(ひえんがん)

大きな石組 木屐上高嶺 薛蘿秋色清 清風深林外 落日聴猿聲
8 考槃亭(こうはんてい) 茶室 茲亭考槃 時の碩人軸 不絃管 淡然幽谷
9 芙蓉峰(ふようほう) 築山   茲山類士峰 峰勢自奇絶 峰頭萬樹花 宛然六月雪
10 天女嶋(てんにょとう) 南湖の中島 孤島水中央 神祠花木深 不為雲雨変 時々鳴琴
11 楓岸(ふうがん) 南湖の南岸 峰傍萬樹楓 紅葉好寓目 映水映復山 帰鳥不敢宿
12 留春閣(りゅうしゅんかく) (現存せず) 桃李三月時 留春此閣 唯有百囀鶯 慇懃謝君恩
13 百花園(ひゃっかえん) 花畑 名園百花深 看花不覚瞑 公来然時題 明月照花徑
14 鹿鳴原(ろくめいげん) 芝生地

晴日■々鹿 平原春草新 吹笙復鼓瑟 可燕嘉賓 (■はくちへんに幼)

15 梅林(ばいりん) 梅林 数歩梅行 萬朶花雪 一夜月林 与花清潔
16 涵翠池(かんすいち) 池涵千山翠 雲樹映清流 時有春風転 有魚浮枝上
17 南湖(なんこ) 南湖明月夜 此好船 恍似仙客 槎雲漢辺
18 掬月楼(きくげつろう) 主な建物 湖上清風来 細雨夜来歇 愛此高樓中 坐掬東山月
19 睡龍潭(すいりゅうたん) ふち 棹過睡龍潭 朦朧昼不開 莫教雲雨至 不是採
20 飛来峰(ひらいほう) 眺望の良い築山 栗林園中勝 無過飛来峰 下有甫田道 春耕問老農

栗林二十境

栗林二十境は栗林二十詠と同時期にこれも当時の藩主松平頼恭の命で詠まれた二十の漢詩です

芙蓉沼 水面芙蓉花 花開如有待 箇々迎蘭舟 一任佳人採
西湖 澄湖移短棹 水木素煙清 石壁西山下 好來題姓名
百花園 愛此百花園 百花争相媚 公來然時題 名月照花徑
脩竹岡 脩竹被岡上 清陰夏更寒 為憐幽闃趣 日日問平安
戛玉亭 幽亭傍竹邊 斜臨流水曲 水音與竹聲 晝静聞戛玉
鹿鳴原 原上鹿呦呦 應憐春草長 非関楽嘉賓 草茵恢幽賞
睡龍潭 深潭浸名月 岸樹露團團 應有驪龍睡 不勝珠色寒
南湖 湖中浮嶋嶼 疑是巨鼇擎 髣髴仙州近 不求蓬輿瀛
楓岸 湖南楓樹密 樹密見湖稀 霜葉染衣袂 遊人披錦帰
考槃亭 小亭幽趣足 座來心賞深 石泉清且浅 可以濯塵襟
飛来峰 行過森林中 兀然一峰秀 不似一簣功 飛來歳月久
飛猿巌 怪巌驚鬼工 巌上繍羅薜 遊人不得禁 一任羅薜綴
留春閣 花樹縈綺閣 此中長留春 幾樹花已謝 幾樹花更新
栖霞亭 山亭雲外賞 霞彩亦堪餐 毎有天風落 冷然問羽翰
天女嶋 繋舟天女嶋 沙白水光鮮 利益未須願 此中即福田
掬月楼 瓊楼臨緑水 珠懢邀名月 清影波間動 却訝洗蟾窟
涵翠池 穿池繞瑤島 池水青於藍 嶋上幽松翠 却看水色含
北湖 湖水涵芙蓉 嶺雪倒寒影 夜座湖上月 不堪清輝冷
梅林 北園千樹梅 已與雪花開 不必羅浮夢 美人時自來
芙蓉峰 入時望芙蓉 復望芙蓉出 芙蓉長宛然 恰似東遊日