室町時代の末期の豪族で、
現在の栗林公園南西部に庭を作ったとされる人物。この庭が栗林公園の前身(の前身)となります。
江戸時代初期の大名。
佐藤氏の庭を拡大して南湖ぐらいまでの庭を作ったとおもわれます。
本来は近江の人で生駒高俊に招かれて讃岐の治水、新田開発などに活躍した人物。
八兵衛が治水のため川の付け替えをした結果、川床だった土地が利用可能となり、大きな庭(と庭の池)を作るのに適した場所ができました。
水戸光圀の兄で高松松平家の初代。隠居に際して栗林荘に御殿を建てて住みました。
三千家の一つ、武者小路千家の祖。
一翁は松平頼重に招かれて高松松平家の茶道となりました。
高松松平家の二代。飢饉の際に、庭園造営工事の人を雇い、また、変わった形の石を持ち込んだものには米を与えるという形で救済事業としました。
栗林公園の場所にあった薬園で薬草栽培の研究をしていたことがあります。
造園家、庭園研究者。明治30年に栗林公園を調査し、管理が行き届かず荒れていた栗林公園について「栗林公園改修意見書」「栗林公園保護論」を著しています。
明治から大正にかけての造園家で、新宿御苑などを作った人です。
明治末期から大正初期にかけて行われた北庭の改修を監督しました。
江戸末期から大正にかけての建築家。
商工奨励館の設計者。
昭和時代の作庭家。「昭和の小堀遠州」ともいわれ、綺麗系の庭園に定評があります。
讃岐民芸館の庭を作りました。
和田邦坊(1899 - 1992)は、日本の漫画家、小説家、デザイナー、画家。
讃岐民芸館の初代館長を務めました。
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