栗林公園の歴史

栗林公園の完成には「100年かかった」「150年かかった」と言われることがありますが、1つのマスタープランを100年かけて行ったわけではありません。一旦完成→後の人が改修、を繰り返し「以前からあったものを利用して造る」ことを繰り返しながら拡大したのです。

佐藤家の庭[前身の前身 ]

栗林公園の始まりについては幾つかの説があります。現在よく紹介されるのは、16世紀の後半、この付近の豪族(後に生駒家の家臣)佐藤道益が小普陀 (栗林公園西南端にある築山) の辺りに作庭したのが最初という説です[*1]。当時この辺りは河原だったはずなので、佐藤氏の庭は現在の栗林公園よりずっと小さなものだったでしょう。


補足

佐藤道益が小普陀の辺りに作庭したという説について、決定的な証拠はありません。小普陀の石組が室町時代の様式だということ、佐藤氏がこの付近の豪族だったことからの推測です。

明治時代に建てられた栗林公園碑には「昔在 (むかし)、寛永年間 藩祖英公 嘗て先封 生駒氏の臣 佐藤道益なる者の居址に就てはじめて築く所ところなり」という一節があり、栗林公園(の一部)は佐藤道益の屋敷の跡に造られたという認識があったようです。道益の時代のものは残っていないという認識だったようですが、後の調査で小普陀の石組が室町時代のものと年代判定されると、小普陀は道益の庭の痕跡かもしれないという判断になりました。

生駒家による造園[川の付け替えと南湖付近の造営]

江戸時代の初期、この辺りにあった川が治水のため付け替えられ、河原だった土地が利用可能になりました。この時、当時の讃岐の国主だった生駒家がここを別荘にし庭を造ったと推測されています[*2]。


補足

川の付替えは1631年頃、造園は1930年代に行われたとされ、この時期に造られた庭は現在の南湖と西湖のあたりと推測されています。現在、南湖周辺の築山には丸い小石 (河原にあるような石) がたくさんありますが、この小石はここが川だったことを物語るものです。一方

このような石は北湖以北にはあまり見られず、これは作庭の時期が違うからと考えられます。

松平家による拡大と充実[大名庭園としての栗林公園完成]

生駒氏はお家騒動により改易され(1640年)、その後水戸徳川家の分家である松平家が高松を治めることとなりました(1642年)。初代藩主松平頼重はこの地に御殿を建てて自分の隠居場所としました。第2代藩主松平頼常、第3代藩主松平頼豊のときに整備が進んで南庭はほぼ完成。その後第5代藩主松平頼恭は庭を改修して園内の名所に名前を付けさせました(1745年)。この年を大名庭園としての栗林公園(当時の名前だと「栗林荘」)の完成とするのが通説です。

この時点で南庭が完成し、北庭も芙蓉沼、鴨場(現在の群鴨池)、石梁などができています。


明治の改修[一般開放と、公園としての整備 ]

明治維新後「栗林荘」の敷地は一旦国のものとなり、その後県に払い下げられました。県営となった栗林公園は一般開放されます。一般開放を前提として、江戸時代には作りこまれていなかった北庭が公園として完成しました。

この時期にできた部分は南庭の新日暮亭、北庭の商工奨励館とその前の整形式庭園、芝生広場、北梅林、北門から商工奨励館までのS字状の広い路、などです。

昭和以降の改修[公園としての整備が続く一方、江戸時代に戻す改修も]

「完成」の後も、時がたてばまた改修があります。昭和以降は次のような改修がありました。

・明治時代に一旦園外に流出していた日暮亭が、園内に戻ってきた。

・讃岐民芸館が開館した。

・江戸時代には職員宿舎や畑だったところに栗林公園動物園が造られたが、後に動物園を閉鎖して駐車場とした。

・鴨場跡に高松市美術館が造られたが、後に美術館は園外に移転し、鴨場が復元された。



*1

1768年に書かれた地誌「三代物語」に「昔生駒君の臣佐藤道益なるものこの地に居住す」とある。

*2

生駒氏の分限帳(職員名簿)によれば、「栗林」という場所の「掃除之者」がいた。