西側の山に接する西湖周辺は自然樹形の木が多く、山とあわせて素朴な侘びの雰囲気があります。
西湖という名前は、中国の景勝地にちなむと思われます(西にあるから、という理由もありますが)
栗林公園の中でも早くにできたところです
三千家の一つ「武者小路千家」は高松松平家の茶頭でした。1700年頃に造られたこの茶室は武者小路千家初期の茶室として貴重なものです。
この茶室は紆余曲折を経て今の位置に落ち着きました。
もとは吹上の辺りにあった「考槃亭」という名前の茶室です。その後日暮亭と改名されて現在の新日暮亭の位置に移り、明治になって一時売却されて高松市街に移築され、1945年に園内に戻りました (その後まもなく、高松市街は空襲で焼けています)。ただしこの時、元の場所にはすでに新日暮亭があったので現在の場所に建てられたということです。
名前の由来はもちろん中国の古戦場・景勝地です。赤っぽく見えるのはマグマの貫入に伴う高温酸化によるものです。
「南 戛玉を過ぎ鹿鳴原の西に至りて数十丈の鉄歩障を設くるが如し。石壁(赤壁)と曰ふ」(『栗林荘記』)
讃岐質安山岩で、柱状節理が見えます。
栗林公園発祥の地とも言われています。人工の山に、室町時代の手法で組まれた石組(花崗岩)があります。
「普陀」とは観世音菩薩の霊場である補陀落山のこと。山の裏にかつては観音堂がありました。
芝生です。草原の表現として芝生を使ったことが名前から想像されます。
「亭の南は即ち鹿鳴、結縷地に敷きて、以て座臥すべし」
(『栗林荘記』)
大きな石組で、周囲は背の高い木が多く薄暗い場所です。
西湖の西岸にある岩屋で、舟でここに渡って涼んだと言われています。
「山松籠して其の上を冒し、夏屋の如きは爛柯石屋と曰ふ」(『栗林荘記』)
江戸時代には人力で水を流したという、高さ18mの人工滝。岩肌を流れ落ちるタイプです。
キノコが上に伸びたみたいな灯篭。豊島石製です。
かつて存在した戛玉亭という茶室の蹲踞でした。現在は日暮亭の蹲踞となっています。
庭園完成時は百花園、その後薬園となり、一時平賀源内が薬草の栽培をしていました。
かつては西湖の北端辺りから山へ登ることができました。パンフレットの地図にあるいきどまりの道がその跡のようです。
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